実務翻訳において良訳とは何か

翻訳に向き合う力

実務翻訳において「良い訳文」とは何を指すのだろうか。

実務翻訳の4要素

はじめに、実務翻訳そのものを要素分解する。これらの要素を足がかりにして実務翻訳における良訳とは何かに一つの回答を導きたい。

実務翻訳の4つの側面

上図のように実務翻訳には (1) クライアントへの納品物、 (2) 業界や分野特有のテキスト、 (3) 日本語、(4) 原文からみた訳文という4つの側面がある。以下に各要素の説明を付けた。

1. クライアントへの納品物

第一に実務翻訳はクライアントへの納品物である。

実務翻訳業は受注産業だ。クライアントからの発注がなければ仕事は発生しない。ゆえに、翻訳者が生計を立てていくには、常にクライアントが要求する品質を満たす翻訳を納品しなければならない。この実務翻訳は納品物という意識がまず大切である。

2. 業界や分野特有のテキスト

次に実務翻訳には業界・分野特有のテキストという側面がある。

翻訳物に限らず、日本のビジネスの現場では業界ごとに独特な言い回しや専門用語が存在する。これらの言葉は業界の部外者からみれば「不自然な日本語」に見えることもあるが、業界の中の人間からすれば「自然でわかりやすい日本語」に映る。

実務翻訳においてもこの点を考慮して、業界・分野に合わせたベストな表現を用いる必要がある。

3. 日本語

実務翻訳はクライアントへの納品物や業界特有の言葉である以前に、そもそも日本語であるということも忘れないでおきたい。

忙しないビジネスの現場で好まれる文書は、読むのに苦労や違和を感じない日本語だ。端的にいえば「自然でわかりやすい日本語」。何も比類なき美文が求められているわけではない。

わかりやすい日本語で書かれた翻訳は、現場ではそのまま業務の円滑化につながる。実務翻訳者は、いかなる文書でも端から日本人の書き手が作成したような自然でわかりやすい日本語を作らなければならない。

4. 原文からみた訳文

実務翻訳は原文があってこそ存在する訳文である。前項と同じく自明の理。

結局のところクライアントが世に流したいのは原文の情報だ。特別な理由がない限り、原文の意味を正確に反映した訳文が求められる。

良訳とは何か

私は、上記の4要素において「問題のない翻訳は良訳」と考える。

どんなに心を込めて作り上げた翻訳でも、また一方で、流れ作業のようにとりあえずこなした翻訳でも、4つの側面からみて問題がなければすべて良訳と判断する。

実務翻訳においては問題さえなければ事足りる

ここで立ち止まって考えるべきことがある。

普通に考えれば、4要素において「質の高い翻訳」こそが良訳になるだろう。質が高い = 良い訳ではないのか。なぜ「問題のない翻訳」という消極的な定義をつけるのか。理由は二つある。

まず、「品質が高いとは何か」という込み入った議論を避けるためだ。誤訳や訳抜け、タイピングエラーなどの「問題の有無」は客観的に判断できる。一方で「言葉の品質」に対する評価は主観によるところが大きく、議論が複雑化してしまう。

二つ目の理由は、実際の現場でも「問題のない翻訳」がクライアントに広く受け入れられているからだ。上記の4要素において明らかな問題がなければ、翻訳という納品物は受け入れられることが多い。他に理由がない限り契約は続いていくことになる。

しかし、どんなに小さなエラーであっても問題が発覚するや否やクライアントからお𠮟り(深刻であれば減額・打ち切り)を受けることになる。つまり、「問題の有無」こそが実務翻訳の仕事の生命線なのだ。品質をさらに磨いていくという話は二の次である。

誤解を恐れずに言い切れば、実務翻訳においては問題さえなければそれで事足りるのだ。もちろん品質が高いことに越したことはない。案件によってはこの上なく美しい訳文を求められることもあるだろう。しかし、この「問題の有無」という評価軸が実務翻訳の世界に広く存在しているのもまた事実だ。

というわけで、議論の複雑化を避けるため、また、実際の状況に即して「問題のない翻訳」を「良訳」と定義した。

何を評価するか

では、具体的にどのような点から問題の有無を評価するのか。それは、次の4つの事項を満たしているか否かによる。

1. クライアントへの納品物として – クライアントの品質要求を満たしているか
2. 業界・分野特有のテキストとして – 業界・分野の標準を満たしているか
3. 日本語として – 自然かつ読みやすいか
4. 原文からみた訳文として – 原文の意味を正確に反映しているか

この4項目に問題がなければ良訳である。

これらを多くの場合は両言語に精通したクライアントのレビュアーが評価することになる。レビュアーが不在の場合は、翻訳物のエンドユーザーが評価することになるだろう。

優先順位の話

なお、この4要素は1から4の順で優先順位が下がっていく。1が最も優先され、3と4が最も後回しにされる(3と4は同順位)。

たとえば、クライアントから「原文から逸脱してもいいので、とにかく弊社のブランドイメージをうまく伝えるような訳文にしてほしい」などと要望を受けた場合には、やはり1の意見が最優先され、4の効力が緩むことになる。

また、業界の専門用語が一般にわかりにくい日本語であることから、2が3に優先されることに一定の説明がつく。(翻訳であろうとなかろうと)契約書が読みづらいのもこれに関連する。どの業界・分野にも変えてはならない型や表現があるのだ。どの状況においても、すべての人にわかりやすい日本語が好まれるわけではない。

なお、どの要素も重要であることに変わりない。とくに3と4は、その重要性が当事者間で当然のように認識されているがために、言わずもがな常に守るべきものという解釈が正しい。

実務翻訳者に必要な力とは

「上記の4項目に問題がなければ良訳である」

この主張で気を付けるべきことは「問題のない翻訳」が簡単に生み出せるわけではないということだ。問題のない翻訳を生み出すには、翻訳者が7つの翻訳の力を高い水準で備えている必要がある。

また、そもそも案件によって何が問題となるかが異なるので、前準備を徹底して案件ごとに良訳の像をはっきりさせてから翻訳作業に入る必要もある。

おわりに

実務翻訳は多くの場合で徹底して美しい訳文を作ることを目的にした仕事ではありません。実務翻訳は常にリソース(お金と時間)に限りのある仕事です。

この点について発注者と受注者側で暗黙に了解されているのかもしれません。上述した4要素について「問題のない翻訳」こそが現場で求められており、翻訳ビジネスとして成立しているのであればその品質の翻訳物こそが「良訳」でいいだろうというのが私の主張です。

もちろん、様々な考え方があるでしょう。翻訳の目標については、「クライアントの要求した品質がすべて」「原文の読み手と訳文の読み手が同じ絵を浮かべる」「スコポス(翻訳の目的)を満たすこと」など、翻訳会社や第一線で活躍する翻訳者、翻訳の研究者の皆様がこれまでに画期的なアイデアを提唱しています。ぜひ、ご自分の翻訳観に最も当てはまる定義を見つけてください。

実務翻訳において良訳とはいったい何なのか。今回は大きなテーマに取り組んでみました。今後、翻訳に向き合うなかでこの論をブラッシュアップしていきたいです。

それでは。