実務翻訳に必要な7つの力

翻訳に向き合う力

ある時、実務翻訳に必要な力を次の7つに分けると何かと便利なことに気がつきました。

  1. 原文を読む力
  2. 訳文を書く力
  3. 校閲する力
  4. 調べる力
  5. ツールを使う力
  6. 専門分野の力
  7. 翻訳に向き合う力

この分類は、たとえば自分の翻訳の力を見直したり、自己学習の指針にしたり、翻訳に必要なスキルを専門外の方に説明する際のガイドにしたりなど、いろいろな場面で活用できます。

分類にあたっては、一般的な実務翻訳の作業工程に沿う項目を取り上げて、翻訳者にとって実用的な分類になるよう努めました。いまだに観念的なところもありますが、この文章では各々の力について簡単な説明を試みます。

なお、この分類では「翻訳」という言葉は「実務翻訳」を指し、「文芸翻訳」や「映像翻訳」は考慮しないものとします。すべての翻訳行為に通底する力があることは承知していますが、誤解を避けるために慎重に区分けしたいと思います。

また、実務翻訳の品質目標は簡易的に「顧客が満足する品質」とし、その顧客は「最大限に正確かつわかりやすい翻訳を求めている」と設定します。万人の状況に当てはまる分類ではありませんので、活用する際は必要に応じて内容を調整してください。

1. 原文を読む力

原文の意味を理解する技術を表します。前準備を除けば、原文を読むことが翻訳作業の始まりとなり、読めないことは書けないため、翻訳において最も重要な力といえます。

原著者が文章全体、段落、文、語単位で何を伝えようとしているのか、その意図まで理解することが求められます。

2. 訳文を書く力

原文で理解したことを訳出先の言語で表現する文章力。プロの翻訳者にとっては、基本的には訳文が経済的価値のある唯一の商品です。訳文が読み手に読まれることで初めて翻訳者は社会の役に立ちます。商品のかたちを形成する力ですので、原文を読む力に並んで間違いなく大切です。

また、容赦のない水準にはなりますが、原文の筆者以上の文章力が求められます。この点について山岡洋一氏は次のように説明しています。

「翻訳に必要な文章力とは、物書きとして、筆一本で食べていけるだけの文章力なのだ。幸徳秋水によれば、『原著者以上に文章の力がなくては』翻訳はできない。」
翻訳とは何か 職業としての翻訳 山岡洋一 p. 150 (2001)

3. 校閲する力

自分で訳文を読み返して、細かいエラーを取り除いたり、うまく流れるように工夫したりして、改善する力。「訳文を書く力」に含めてもかまわない項目ですが、翻訳者にはつねに自分の訳文を疑う力が求められるため、慎重に分けて考えました。

僭越ながら私の翻訳校閲の経験から申し上げますと、些細な間違いを残してしまう方がいらっしゃいます。これも分類として挙げた理由になっています。何度も読み返す時間が取れない場合でも、QAツールを活用するなどしてタイピングエラーは一つも残さないように工夫することが賢明でしょう。

4. 調べる力

原文の意味を調べたり、適切な訳語を調べる技術を指します。正確かつ自然な訳文を作るうえで情報調査は必須の作業です。

誠実な翻訳者はとにかく調べる、徹底的に理解しようと努めます。綿密な調査を行えば、自分の訳文に対するクライアントからのいかなる質問にも答えられるようになります。プロとして説明責任を果たすことができるのです。ゆえにこの力は疎かにしてはなりません。

5. ツールを使う力

翻訳支援(CAT)ツールを使う力。翻訳メモリーや用語集、QAチェック機能を活用して、翻訳作業の効率化と翻訳物の品質向上を狙います。そもそもTradosやMemoQ、MemsourceなどのCATツールを使えなければ仕事の機会を逃すことに繋がってしまいます。

また、昨今成長の著しい生成AIを使う力もこちらに含まれます。ご存じのとおり、その汎用性から何をするにせよたいへん便利な生成AIですが、翻訳業務に応用する際には、プロンプティングをはじめ、自分にあった活用法の選定、情報漏洩に対する対策、最新のAI情報など、知っておきたいことがたくさんあります。

6.専門分野の力

ある特定の分野への知識や経験のことを指します。翻訳の仕事はすべての案件が明確な専門分野で区別されているわけではないので、仕事を獲得するうえでは必ずしも何らかの専門分野を有している必要はないでしょう。

しかし、翻訳会社のトライアルでは専門分野ごとに試験が決まっていることや、受注レートや受注量の観点からも、何らかの専門分野を持つことは重要といえます。

たとえば翻訳会社に登録しているフリーランス翻訳者の場合、履歴書に明確な専門分野が記載されていると、その専門分野に関連した案件が発生した場合に頼まれやすくなります。

7. 翻訳に向き合う力

翻訳という職業の倫理観に近いのですが、それよりも広い意味を持たせています。たとえば自分の翻訳にどれほどの責任を持っているか。自分の翻訳について隅々までその根拠を説明できるか。些細なエラーをなくそうとする意識はあるか。翻訳は好きか。観念的ではありますが、このような翻訳作業に対する心構えやそれを形成する考え方を指します。

加えて、心身の健康状態を維持する力も含まれます。翻訳という仕事には高度な集中力が求められます。脳が活発に動くかどうかが翻訳の品質を左右します。よって、日ごろから睡眠・運動・食事といった生活習慣に気を遣う必要があるのです。日々を丁寧に生きること。丁寧な生活から洗練された翻訳が生まれます。

他6つの力を支える土台になるので、常に忘れることなくはっきりと意識していきたい力です。

翻訳の力を整理する意味

このように整理しておくと何より学びの計画が立てやすくなります。たとえば、今月は「原文を読む力」を鍛えて来月は「ツールを使う力」を伸ばす、そうだ、今年はあの先生の本を読む時間をたくさん作って「翻訳と向き合う力」に何か新しい変化を起こそう、などと考えられますね。

また、学習の前段階であれこれ悩まずに一直線に学習を進められるようになります。翻訳の学習はときに迷宮のように感じられます。自分の選んだ学習方法が正しいのかわからなくなってしまうことがあります。しかし、前もって学習項目が7つに分けられていれば、安心して勉強に取り組むことができるのです。ちょうどTOEICがReadingとListeningに分かれていて勉強を継続しやすいのと同じです。

他にも、翻訳の技術を誰かに伝えたいときにも使えます。たとえば企業の翻訳部門に勤めていて、ある日後輩から翻訳の勉強法についてどうすればよいか相談を受けたとしましょう。その際、一応の指南としてこれを提示できます。「原文を読む力」を引き合いに出せば、日々少しずつでも文法・語彙の知識を蓄えたり、洋書や英語のニュースなどの生の英語に触れる必要があるということを後輩に納得させることができます。

最後に、7つの力という分類そのものがもたらす無数の気づきがあります。たとえば個々の力は独立しているものではなく、相互に作用し合って真価を発揮していることに気づきます。そして仮に、わけあって自分の翻訳の力に自信が持てなくなってしまった夜があるとしましょう。そんなときに7つの力を眺めながら過去に思考をめぐらせれば、自分のなかに卓越した力が存在していたことを知ります。するとみるみる視界が開けてきます。翻訳力は7つの力を掛け合わせた総合的な能力であり、何もすべてを完璧に持ち合わせる必要はないのだと、これまで独自に練り上げてきた凸凹の力で進んでいけばいいのだと納得し、心が勇気で満たされます。これは単なる一例で十人十色の気づきがあると思います。分類から得られるこのような開眼の経験は、職業としての翻訳者にとってずっと先まで背中を押してくれるかけがえのない力となるでしょう。

主な参考文献

1. 『翻訳のレッスン』 高橋さきの 深井裕美子 井口耕二 高橋聡
2. 『翻訳スキルハンドブック』 駒宮 俊友 
3.   翻訳通信ネット「翻訳者に求められる能力」 https://www.honyaku-tsushin.net/
4. 『翻訳家で成功する!―徒弟修業からインターネット・オーディションまで』 柴田耕太郎
5. 『英日日英 プロが教える基礎からの翻訳スキル』 田辺希久子 光藤京子 
6. 『翻訳とは何か: 職業としての翻訳 』 山岡洋一 
7. 『最新版 産業翻訳パーフェクトガイド』(2019) イカロスMook
8. 『DVD付 翻訳事典2019-2020』アルク